今回の岡村靖幸復活劇、実はここまであまり積極的に乗っかれなかった。
もちろん、何度目かのリスタートの第一報が届いたときは僕も胸が躍った。ただその後、リリース情報解禁から、スペシャのイベント出演、「聖書」の「ぶーしゃからかぶー!」コールで構成された公式サイトの動画だったり、話題はこれでもかというほどに僕を揺さぶったのだけれども、揺さぶられれば揺さぶられるほど、期待感の一方で何とも言えない不安な気持ちが襲ってきた。
その理由を語る前に、ニューアルバムリリース以前に僕が岡村靖幸に対して思っていたことについて、改めて検証しておく。
非常に独断的ではあるけれど、岡村靖幸というアーティストが発信しているメッセージというのはつまるところ、
1 輝かしい過去に対する羨望
2 性のインフレ
3 岡村靖幸としてのパブリックイメージ
ざっくりこの3点で語るに足りると思ってる。
1は「だいすき」「ロンシュー」「SUPER GIRL」あたりのいわゆる"表ヒットソング"に多い。同様の事象を題材にする日本人アーティストは他にもたくさんいるが、彼はその題材を独特な言語感覚をもって表現するという点で抜きん出ている。
その言語感覚がどういうものか?というと、たとえば「19(nineteen)」の冒頭の
「そんなに言うならここで」
は
「Somebody you gonna gotta day(意味不明だけど)」
と、英語の響きを日本語に咀嚼したり(同様の手法は桑田佳祐や奥田民生も使うテクニックである)、「ペンション」で対象に対して「あなた」でも「君」でも「YOU」でも「お前」でも「ハニー」でもなく、「リボン」と呼んでしまったり、そういうセンス全般のことを指す。
2は"LOVE"に対する岡村靖幸なりのアウトプット、と捉えている。
一番色濃く出ていたのが「靖幸」~「家庭教師」~シングル「SEX」あたりまで。個人的には「家庭教師」のライブDVDがその真骨頂だと思ってる。単純に過激な性描写だけに限らず、たとえば「チャームポイント」などで歌われる比較的ポップな事象もここに含まれる。表向きだけ見れば非常にエキセントリックなテーマだけれども、実は先に挙げた3つの要素の中で一番プライオリティが低いんじゃないかと思う。
もちろん、何度目かのリスタートの第一報が届いたときは僕も胸が躍った。ただその後、リリース情報解禁から、スペシャのイベント出演、「聖書」の「ぶーしゃからかぶー!」コールで構成された公式サイトの動画だったり、話題はこれでもかというほどに僕を揺さぶったのだけれども、揺さぶられれば揺さぶられるほど、期待感の一方で何とも言えない不安な気持ちが襲ってきた。
その理由を語る前に、ニューアルバムリリース以前に僕が岡村靖幸に対して思っていたことについて、改めて検証しておく。
非常に独断的ではあるけれど、岡村靖幸というアーティストが発信しているメッセージというのはつまるところ、
1 輝かしい過去に対する羨望
2 性のインフレ
3 岡村靖幸としてのパブリックイメージ
ざっくりこの3点で語るに足りると思ってる。
1は「だいすき」「ロンシュー」「SUPER GIRL」あたりのいわゆる"表ヒットソング"に多い。同様の事象を題材にする日本人アーティストは他にもたくさんいるが、彼はその題材を独特な言語感覚をもって表現するという点で抜きん出ている。
その言語感覚がどういうものか?というと、たとえば「19(nineteen)」の冒頭の
「そんなに言うならここで」
は
「Somebody you gonna gotta day(意味不明だけど)」
と、英語の響きを日本語に咀嚼したり(同様の手法は桑田佳祐や奥田民生も使うテクニックである)、「ペンション」で対象に対して「あなた」でも「君」でも「YOU」でも「お前」でも「ハニー」でもなく、「リボン」と呼んでしまったり、そういうセンス全般のことを指す。
2は"LOVE"に対する岡村靖幸なりのアウトプット、と捉えている。
一番色濃く出ていたのが「靖幸」~「家庭教師」~シングル「SEX」あたりまで。個人的には「家庭教師」のライブDVDがその真骨頂だと思ってる。単純に過激な性描写だけに限らず、たとえば「チャームポイント」などで歌われる比較的ポップな事象もここに含まれる。表向きだけ見れば非常にエキセントリックなテーマだけれども、実は先に挙げた3つの要素の中で一番プライオリティが低いんじゃないかと思う。
そして、個人的に岡村靖幸を岡村靖幸たらしめているのは3。
病的なまでの自意識過剰、そしてそこから来るプレッシャーに押しつぶされつつも、若干楽しんでいる素振りが垣間見れたりするさまが、岡村靖幸を孤高の存在にさせているんじゃないかと思う。この要素はエッセンスとしていろんな曲に散りばめられているので、どの曲がどう、とはなかなか言い表せないけれども、強いて言えば「どぉなっちゃってんだよ」。あとはアルバム「靖幸」の裏ジャケの詩。
ちなみにそういう意味で言うと、"表ヒットソング"の筆頭「カルアミルク」は上記全ての要素をバランスよく含んだ、彼を体現するにふさわしい内容であると思う。
この3が原因かどうかはわからないが、おそらく3がどんどん膨張した結果、作曲ペースがガクンと落ち、90年代後半から一切世間に姿を見せなくなり、その時間のなかで「岡村靖幸としてのパブリックイメージ」という志向性にいろんな意味で決着がついてしまう。そしてこのメッセージ性がオミットされる契機になったのがシングル「真夜中のサイクリング」ではないか?と思うのだ。少なくとも僕にとっては、このシングル以前・以後で岡村靖幸のアーティストとしてのメッセージ性は大幅にシフトチェンジされた。世間が彼に追いついたのか、彼が世間に降りてきたのかわからないが、とにかく世間と彼が比較的フラットになったことで、彼から人間的なリアリティを見いだすことが容易になった。「身近になった」といういいかたの方が正しいのかもしれない。今までだってそういった"リアリティ"はなくはなかった(先の"カルアミルク"なんてまさにそう)が、紐解くのに時間がかかるものだったのだ。
いろいろ検討違いかもしれないが、少なくとも僕はそう認識しながら聴いている。
・・・と、ここまでが今回の復活劇前に考えていたこと。
そんな状況で、今回のリリース情報をみて愕然とした。
セルフカバー集2枚組は、確かにこのタイミングでしか出せなかったであろうアルバムだと思う。実際、2011バージョンにアップデートされた楽曲は、ただでさえヒット曲満載なのに、さらにビートがタフになり輝きが増した。つまらないわけがない。まさにアクセルベタ踏みのフルスロットル状態だ。それに加えて、ただでさえそんな内容なのに思い出補正もかかって聴き手のテンションにものすごいうねりをもたらしている。
だが、そこが問題なのだ。このアルバムにより彼のこの先の活動のハードルをがっつり上げてしまった。皆が(というか僕が)過度の期待をしてしまった、と思う。10年前のベスト盤リリース時と状況はまったく同じだ。
今後リリースされるであろうオリジナルアルバムを聴くのが怖い。そのプレッシャーで再び地下深くに潜り込んで、もしかしたらリリースされない、なんてこともあるんじゃ・・・と若干脳裏をよぎるからだ。孤高の存在なのにサービス精神旺盛な"岡村ちゃん"への幻影(というかそれが46歳になった今でも体現できるところが彼のすごいところなのだが)、とさまざまな人生経験を重ねたところから滲み出てくるブルースとのアンビバレンツ。一介のファンの分際でこんなこと言うのは憚られるが、それはカート・コバーンだったら自ら命を落とすほどの一大事だ。僕は本気で心配なのだ。
病的なまでの自意識過剰、そしてそこから来るプレッシャーに押しつぶされつつも、若干楽しんでいる素振りが垣間見れたりするさまが、岡村靖幸を孤高の存在にさせているんじゃないかと思う。この要素はエッセンスとしていろんな曲に散りばめられているので、どの曲がどう、とはなかなか言い表せないけれども、強いて言えば「どぉなっちゃってんだよ」。あとはアルバム「靖幸」の裏ジャケの詩。
ちなみにそういう意味で言うと、"表ヒットソング"の筆頭「カルアミルク」は上記全ての要素をバランスよく含んだ、彼を体現するにふさわしい内容であると思う。
この3が原因かどうかはわからないが、おそらく3がどんどん膨張した結果、作曲ペースがガクンと落ち、90年代後半から一切世間に姿を見せなくなり、その時間のなかで「岡村靖幸としてのパブリックイメージ」という志向性にいろんな意味で決着がついてしまう。そしてこのメッセージ性がオミットされる契機になったのがシングル「真夜中のサイクリング」ではないか?と思うのだ。少なくとも僕にとっては、このシングル以前・以後で岡村靖幸のアーティストとしてのメッセージ性は大幅にシフトチェンジされた。世間が彼に追いついたのか、彼が世間に降りてきたのかわからないが、とにかく世間と彼が比較的フラットになったことで、彼から人間的なリアリティを見いだすことが容易になった。「身近になった」といういいかたの方が正しいのかもしれない。今までだってそういった"リアリティ"はなくはなかった(先の"カルアミルク"なんてまさにそう)が、紐解くのに時間がかかるものだったのだ。
いろいろ検討違いかもしれないが、少なくとも僕はそう認識しながら聴いている。
・・・と、ここまでが今回の復活劇前に考えていたこと。
そんな状況で、今回のリリース情報をみて愕然とした。
セルフカバー集2枚組は、確かにこのタイミングでしか出せなかったであろうアルバムだと思う。実際、2011バージョンにアップデートされた楽曲は、ただでさえヒット曲満載なのに、さらにビートがタフになり輝きが増した。つまらないわけがない。まさにアクセルベタ踏みのフルスロットル状態だ。それに加えて、ただでさえそんな内容なのに思い出補正もかかって聴き手のテンションにものすごいうねりをもたらしている。
だが、そこが問題なのだ。このアルバムにより彼のこの先の活動のハードルをがっつり上げてしまった。皆が(というか僕が)過度の期待をしてしまった、と思う。10年前のベスト盤リリース時と状況はまったく同じだ。
今後リリースされるであろうオリジナルアルバムを聴くのが怖い。そのプレッシャーで再び地下深くに潜り込んで、もしかしたらリリースされない、なんてこともあるんじゃ・・・と若干脳裏をよぎるからだ。孤高の存在なのにサービス精神旺盛な"岡村ちゃん"への幻影(というかそれが46歳になった今でも体現できるところが彼のすごいところなのだが)、とさまざまな人生経験を重ねたところから滲み出てくるブルースとのアンビバレンツ。一介のファンの分際でこんなこと言うのは憚られるが、それはカート・コバーンだったら自ら命を落とすほどの一大事だ。僕は本気で心配なのだ。